さあ、キルケゴール「死に至る病」を読もう

第1章より。
『人間的にいえば、何物にも増して美しく愛らしい女の若さ、ただただ調和であり、平和であり、喜びであるとするこの若さすらも、絶望でしかない。
若さは確かに幸福である。
しかし、そのずっと奥のほうに深く隠された幸福の秘密の奥底に、やはり不安が潜んでおり絶望が巣くっている。
絶望が巣くうのはそういうところ、幸福の真っただ中においてである。

彼は小石のようにすり減らされ、現行貨幣のように流通する。
世間では彼を絶望しているとみなすどころか、人間は誰でもこうあるのが本当だとされる。
一般に世間は(それもそのはずだが)真に恐るべきものの何たるかを知らない。
生活に何の不都合もきたさないばかりか、かえってその人の生活を安楽に愉快にしてくれるようなそういう絶望が、絶望とみなされないのはむしろ当然である。

このような仕方で絶望している人間は、そのためにかえって万事都合よく(・・・)世間の中でその日その日を送り、世間のあらゆる仕事に携わり、他人からほめられ、彼らの間で重きを為し、彼らから尊敬を受けることができる。
それはみたところ、円満で幸福な人間生活である。
人が世間と呼んでいるものは、いわば世間に身売りしているような人間ばかりから成り立っている。
彼らは自分の才能を使い、世俗の仕事を営み、賢く打算し、富を蓄えなどして、おそらくは歴史に名を残すものもあろう。
しかし彼らは彼ら自身ではない。』


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・少なくとも彼らは有能であり、私もそのご多分に決して漏れてはいないことが、時折いささか悲しくもなる。私にはこの時代も場所もかけ離れた19世紀のデンマークの若者が示したような、恐るべき強靭な思考力、恐るべき豊かな創造力、恐るべき広範な洞察力、恐るべき鋭い分析力が身に付くだろうか。痛みに耐える準備はできているだろうか。確かに、この類の本は、説明を得たいと思っていたことを豊かに知らしめ、私の社会科学への興味をうまい具合に原形質分離させる力を持っている。しかしながら、これでは結論を学んだだけに過ぎない・・・。(続く)