私的文章 オンラインupしただけ(笑)

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円覚寺座禅から帰宅。教養学部も終わり、1.5年が経った。3年から経済学部(金融学科)に進学決定したところ。

さて、この1.5年。宗教漬けである!!!仏教、キリスト教イスラム教。

始まりは、ワンゲルで比叡山延暦寺に行ったとき、延暦寺会館にて「お客様、座禅をしないとご宿泊料金が1000円高くなります(キリッ」て言われた時。マジったけど、なんとか済ませて、でもやはりそれが原体験になってたんでしょうか。原体験、あな恐ろしや(真面目な意味で)。・・・ここから得られる教訓:「最初をよく観察しろッ!」


●仏教:禅宗は実は仏教だと知らずに入門。陵禅会、龍澤寺、後藤老師、永平寺円覚寺。知らない間にどんどん引き込まれてゆき、僕はこれに力を感じる。自分でも結構急所までは突くところまで来ていると思う。だが、ずっとそうしてばかりいられないのである。現実世界でビジネスをするのが自分の本性だし、家がお寺でなくてよかったと悟った(笑)し、生活全体を宗教色に染めることは僕には不可能だ!(と気づいた)が、とても座禅は価値のある行為である。時間の許す限り、自分について自覚的でありたい。ビジネスだけの人生は絶対送ってやるものか。人間には本来、こころというものが、存在するのだ。それは、自分のことに気づくことで初めて体得できる。

そしてこころは、自分の内なる潜在能力、capacity inside myself とほぼ同一である。自らの仏に気づくこと、目覚めること。絶対に、若いうちに経験しといたら後の人生も有意義なものに、実質感を伴った人生になるはずである。

禅についての歴史、知識、時代背景、考え方も自然と学ぶことができたのは、ひとえに陵禅会のおかげである。何か一つ、極めるべき軸(専門)を持っていると他のものがが非常に理解しやすくなる、という手本のような例だ!禅の堂々としたポリシーは、大好きであるが、いかんせん押し付けはよくない。どこまで行っても、個人の自由に任せるべきである。最終的に獲得したいのは、「自由」「freedom⇒libertad」なのである。禅だけの世界でとどまっていてはならない。実際の世界で役に立ててゆく必要があるのである。なぜなら、私たちは禅だけの世界で生きているのではないのだから。それにも私は気づくことができたので、いつまでも禅をしているばかりにもならないのである。毎日少しずつ、3分禅を意識するだけでよい。時間は大切に使わなくてはならない。
毎日生きるているということ、毎日ごはんが食べられることは尊い。ただし、時間もまた尊い

身体的にも座禅は優れている。経を唱えるのも、声の調整となって心地よい領域まで至る。滑舌は唇である。そして正しく結跏趺坐を行うと、激しい座禅となってひどく油汗が滴ることとなるが、それでよい。本当に生きる力が湧いてくる。これは、何なのだろう。円覚寺では、久しぶりに本気になった。本当につらかったが、たまにはそういう思いをすることが、活き活きとした人間になるためには必要だ。心頭を滅却すれば、火もまた自ずから涼し!


それにしても、2500年前の人間(詳しく言えばブッダ)が未来(現代)に生きる我々の問いに答えていた、という事実は見逃せない。たとえば煩悩、空、食、欲、時間、宇宙感、遺伝子感。人間の考えることは昔から変わっていないということの重要な証左である。自ら見つける、という主体性に、私はひれ伏すほどの感銘を受けないではいられない。

仏教のよいところは、決して「押し付け」がないところである。他の宗教は大体、「汝は原罪を抱えている、これに信奉しないと汝は救われないままである」とか説く。そしてそういうのに限って、教義は理解が容易である。しかし、仏法のそれと異なる点は、強制しない、経典の意味が分からない、自分で自分を見つけて気づいて律するしかない、という点である。この差は大きい。自分で自分の中に仏(ここでは「気づいた者、目覚めた者」)を見つけることが各自に任されている。白隠禅師座禅和讃の冒頭にも「衆生本来仏なり」とあるが、これこそ仏教、特に禅宗の極致である。このへんはかなり私の価値観に影響を与えている。むしろ西洋の個人的史観に近いのではないか、と私は思っているくらいだ。

キリスト教
目白に教会があるのを見つけて以来、何だこれは、と思っていた。福島さんについて行ってキリスト教セミナーにも参加したり(非常に怪しかった)、「’’faith’’とは動詞である」か、というカーター大統領の本を読んで感銘を受けたり。しかしやはり、旅先では?長崎の26聖人殉教者資料館・きりしたん文化・大浦天主堂(の修学旅行の先生とか)・浦上天主堂(の心優しいシスターやカトリックセンター←ほんとに心安らかで眠りやすかった!)、?北海道のクラーク博士の「Boys, be ambitious in Christ (God)」、「青年よ、金、利己、はかなき名声を求むるの野心を燃やすことなく、人間の本分をなすべく大望を抱け」「Be gentleman」が一番興奮したキリスト教である。
日本におけるキリスト教の歴史もここで学ぶ。


イスラム
マルコムX導師、シンガポールのモスク、メッカの写真集、東京ジャーミイ。ていうか高校の時からコーラン読みたいと思って図書室に通ってたっけ。嫌いじゃないです。結構好きかもしれない。今度また東京ジャーミイ行ってみよう、とか大学卒業するまでにメッカ行きたいな、の段階。


●いずれにせよ、灘の河合校長が全校集会で「わが灘校は無宗教ではありますが、若いうちに宗教について考えることはとても大事なことです。ぜひ大学に入ったりしてそ浮いう時間を持てたら向き合ってみてください」とおっしゃったことが、私のこの一年半を疑いなく規定してしまった。それから蛇足であるが、校長先生は、「情報を見分ける力、捨てる力」を強く強調していらっしゃった。また、古文の松岡先生は「君たちは将来エリートになるんだろ!だけど、そんな人生でも一度は君たち、いつかどこかで、今までの人生を凡て失くして、生まれ変わらなければならない!」

知らず知らずに宗教に触れててよかったのは、一生懸命生きてる人を間近で見られたこと。彼らの熱意は比類なきもので、人生を懸けて取り組んでいる姿勢は尊敬に値する。(ただし、居眠りや食欲など、どこまで行っても世俗人間らしい部分が垣間見られたことは、ご愛嬌!笑)また、時間の流れ方、名誉・地位・ビジネスとは全然違う世界もあるのだということを、臨済宗曹洞宗を中心にみて回れたこと、それから、人生の基礎となる考え方(一言でいうと、「★自分に気づくこと、★自分に目覚めること」)を早いうちに把握できたことが、私にとっては最大の幸福です。もともと僕たちは生まれた時から幸福なのであって、それだけである。気分の上下など、大きな視点から見れば小さいことで、何があっても堂々とどっしり構えていなさい。

世界は三千大千世界である。(1つの世界が1000個集まって小千世界となり、小千世界が1000個集った空間を中千世界と呼び、中千世界がさらに1000個集ったものを大千世界という。)

大事なのは、食事、呼吸、運動。ヘソの3寸下にある丹田を意識して毎日生活しよう。

何もなくても、★「満ち足りている」と感じられる心を持てるか。非常に取り組み甲斐のある公案をいただいたものである! 
しかし、それとともに現実世界で功を成すことも決して忘れてはならない。我々の大半は在家の人間であるために、自分の力でご飯を食べていかなくてはならないからだ。バランスが重要なのであって、私は別に宗教と真面目に取り組む期間をもつことの重要性をここで述べたかっただけである。断っておくが、もちろん私はどの宗教の信徒でもない。自分の価値観に古来の英知を取り入れたいと願っている普通の学生である。肉も魚も好きだし、女の子も酒も好きである。

しかし今湧き上がってくることには、「もう東洋は大体わかった、次は西洋だ」という思いである。西洋人が東洋を「発見」する例はかなりの例が存在するが、逆に東洋人が西洋を「発見」することは可能であるか?次の私の課題はそれである。(あ、でもここは日本だ・・・)

以下、続く。 今夜は以上!